逃亡者に関するニュース


innolife.net

逃亡者』ダニエル・ヘニー&...
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日本でドラマ『逃亡者』を撮影中のダニエル・ヘニーとイ・ナヨンが、撮影現場の姿を公開した。ダニエル・ヘニーはヒロインのジニ役のイ・ナヨンと日本横浜港で演技呼吸を合わせた。彼は劇中ジニをめぐって、ジウ(チョン・ジフン)と3角愛情関係を繰り広げることになる大 ...
ダニエル・ヘニー横浜ロケ、イ・ナヨンの姿も=『逃亡者朝鮮日報
イ・ナヨン、小顔すぎて話題朝鮮日報

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中央日報

逃亡者』イ・ジョンジン、撮影スチール公開“野生美発散“
innolife.net
イ・ジョンジンは以前に公開された無表情な冷徹な姿のRain(チョン・ジフン)のスチール写真と相反した荒い男性美を発散して、『逃亡者』での息が詰まる対決に対する期待感を高めた。『逃亡者』は韓国戦争が勃発し、消えてしまった天文学的な金額のお金が60年が流れた2010年 ...
イ・ジョンジン、大阪ロケの様子公開=『逃亡者朝鮮日報
ピとイ・ナヨン、パジャマルックが話題「親しそう」中央日報
Rain(ピ)の実際の身長は?K-PLAZA.com

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国外逃亡者、最多の845人 外国人容疑者8割
日本経済新聞
日本で犯罪を行い国外逃亡中の容疑者は昨年末時点で845人にのぼり、3年ぶりの増加で過去最悪を更新したことが29日、警察庁のまとめで分かった。このうち外国人容疑者が8割強の683人で、こちらも過去最多… "プラス"付きは会員限定です。続きをお読みいただくには、電子版 ...


ELLE

来日中のアンジー「子供たちとキディランドでお買い物」
サーチナニュース
本作のストーリーはCIAのエージェントであるイヴリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)が、ロシアからの謎の密告者によって二重スパイの容疑をかけられる。「私はハメられた!」と身の潔白を主張するものの、同僚のCIAから追われ、金髪を黒髪に染めながら逃亡者 ...
アンジーのワイルドで肉厚な唇の秘密とは?黒木メイサは感激で直視できずシネマスクランブル
アンジェリーナ・ジョリーが、1年半ぶりに4人の子供と来日シネマスクランブル

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読売新聞

夏の連ドラ記者座談会(下)
読売新聞
――「逃亡弁護士」は上地雄輔が弁護士に。 笹 はっきりいって海外ドラマや映画にもなった「逃亡者」の現代版。何となく展開が読めるところは安心感があるが、それにしてもフジが散々、「おバカキャラ」として露出させた上地が弁護士役というのもどうかと思う。 ...

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逃亡者関連エントリー

逃亡者 ダニエル・ヘニー、写真公開・・・Rain(ピ)

逃亡者 ダニエル・ヘニー、イ・ナヨン、 善男善女 スチール 眩しくて 日本でドラマ 逃亡者 を撮影中のダニエル・ヘニーの姿が初公開された。 ダニエル・ヘニーは女主人公のジニ役のイ・ナヨンと日本、横浜港での 演技で息を合わせた。 ...

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『逃亡者』 イ・ジョンジン、大阪ロケの様子公開

イ・ジョンジン、大阪ロケの様子公開=『逃亡者』 イ・ジョンジン | 『逃亡者』 イ・ジョンジンがKBSの新ドラマ『逃亡者』で熱血刑事を演じる。 同作の関係者は27日、イ・ジョンジンの大阪ロケでの様子を公開した。 ...

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ドラマ「逃亡者」イ・ナヨン、ダニエル・へニー

ドラマ「逃亡者」イ・ナヨン、ダニエル・へニー 韓国でのコンサート・公演・映画チケットの手配、イベント・ロケ地ツアーなど韓流に関するすべてのことは2MSにおまかせを!! 疑問、質問 ...

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‘逃亡者’イ・ジョンジン、スチール写真公開・・・Rain(ピ)

... 逃亡者’イ・ジョンジン、カリスマ刑事スチール公開‘やはりビ塊’ 俳優イ・ジョンジンの 逃亡者 現地撮影スチール写真が公開された。 イ・ジョンジンは日本、大阪で行われた撮影でシャープながらも 野性美あふれる刑事のキャラクターで完ぺきに変身した。 ...

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イ・ジョンジン、大阪ロケの様子公開=『逃亡者』

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イ・ジョンジン、大阪ロケの様子公開=『逃亡者』

逃亡者旅行記

FLYING CAT ①  in the UNTOUCHABLES(by のうりかさん)

逃亡者
「ちょっと、アメリカまで行ってきてくれないかしら?」と飼主がのたまわく。

誰かに頼まれて何かをすることは日常で当然のように行われていることであって、いまさらながらそれについて考える人はいないだろう。
民法第656条では前述の行為、とりわけ法律行為ではない「準委任」について規定している。

冒頭の「飼主」はご存知、僕の女房どのこと「ニコトラ」であり、「猫」は長靴も履いてみたネコオヤジを自称する僕。

獅子はわが子を千針の谷へ・・・、じゃなく、正月早々、飼主から言われるままに、イリノイ州はシカゴという冷蔵庫の街を目指すネコオヤジ。

シカゴを舞台にした映画は意外と多い。
「スティング」    「ベストフレンズ・ウェディング」
「逃亡者」     「ブルース・ブラザーズ」
「大災難」     「ホーム・アローン」
「バック・ドラフト」「あなたが寝てる間に」
「ダーク・ナイト」等々、
最近ではTVシリーズの
「ER」
韓国映画「イルマーレ」のリメイク「レイク・ハウス」まで。

しかし、なんと言っても僕にとってのシカゴは「THE UNTOUCHABLES」
  • http://www.youtube.com/watch?v=xIF_WdPUBFo&feature=related


  • さて、どうして僕はシカゴへ向かっているんでしたっけ?
    最終目的地はシカゴじゃなかったような・・・。

    【旅行時期】2009/01/01~2009/01/02
    【エリア】シカゴ
    【テーマ】
    【投稿者】のうりか

    ベトナムは燃えている 08年7月 その1 フエ、ダナン、ホイアン(by pumpkin915さん)

    逃亡者
    2008年7月4日(金曜日)
     
    今日は13:30分のシェムリアップ発ホーチミン行きのベトナム航空(VN)826便で出発を予定していた。さらにホーチミンで、ダナン行き国内線に乗り継ぐことになっていた。ホテルをチェックアウトする際、再度、出発時間を確認させたところ、30分遅れて出発するという。ホーチミンでの乗り継ぎに2時間の余裕を取っているから少々の出発の遅延は大丈夫だとは思うが、シェムリアップの空港まで、不安な気持ちで行く。シェムリアップ空港で搭乗手続きをする際、一時間遅れるとベトナム航空の職員から言われる。遅延の説明は一切なし。乗客は出発ロビーで、只ひたすらシェムリアップーホーチミン間の、このシャトル便の到着を待つのみ。空港構内の唯一の食堂Ritazzaでボリュームのあるオープンサンドを取る。ここは前回にも寄っており、非常に美味しい人気店だ。ツナ、生ハム、ビール、水割りで16ドル50セント。この店のオーナーに寄れば、このホーチミンとのシャトル便は、定刻に発着することはめったにない。天候や客が少ないと欠航することもあるといっている。出発まぎわに突然、登場ゲートの変更。結局2時間遅れて、ボンバルディア機VN826便は離陸した。

    機内で、女性乗務員に、この遅延のためベトナム国内線ダナン行きのフライト乗り換えに間に合うか心配だと尋ねると、無表情にあっさり「ノー、プロブレム」と返事が返ってくる。なぜ、「ノー、プロブレム」なのだ。

    結局2時間遅れて、ホーチミン、タンソニャット空港へ着く。ベトナム入国手続きを済ませ、到着口を出ると、猛烈な風とスコールで、横殴りの雨が降っており、出口周辺のピロティーは雨、風を逃れようと、人、人、人で溢れ、喧騒の真っ只中。タクシー乗り場にもタクシーは一台も停まっていない。家内は要領よく用意のレインコートを取り出すが、これを頭から被っても、国際線から、国内線のターミナル間(約200m)の、屋根だけの吹きさらしの連絡通路の移動は不可能だ。呆然とたたづむ我々夫婦に、悪名高いサイゴンの白タクが声をかけてくる。結局、この200メートルを10ドル払うことになった。市内まで行っても5ドルが相場で10ドルはボッタクリもひどいが、ダナン行きの出発時間が迫っている以上、選択肢はない。迫っているというよりすでに過ぎている。

    国内線ターミナル、ベトナム航空の国内線チェックインカウンターに急ぐ。幸い、VN326便 ダナン行きは1時間延発で、まだカウンターは開いていた。なるほど「ノー、プロブレム」の意味がなんとなくわかる。どうしてベトナムの空港はかくも人で溢れているのだろう。狭い空間に人が無秩序に大声を出しながら動き回っている。出勤時の新宿駅構内の方向性のある人の流れはではない。人混みを掻き分けながら登場口にたどり着くのも容易ではない。また、また、出発間際になって、登場ゲートの突然の変更。一塊の乗客が、急ぎ足で、手荷物を引っ張りながら、カオスの中を移動するのである。混乱と喧騒の共鳴する渦。眼球が汗でヒリヒリと痛い。背中を押され、足を踏んずけられ、荷物をぶっつけあい、慣れないものには、無理やり緊張を強制されている苦痛をたっぷり味あうことになる。登場案内が始まる頃、降り続いていた猛烈なスコールは何時の間にかぴたりとやんで夕日が沈むところであった。ベトナム航空のスッチーは能面の顔で態度が硬い。アオザイを着ているのだから、笑顔が似合うのに。アテンダントの中に、シエムリアップ行きのフライトで会った男性乗務員が我々を見て、にっこりする。フーむ、男のほうが愛想がいいのか。訊けばアオザイスッチーは党幹部や政府関係者の子弟が多く、アッパークラスのお嬢様たちということ。なるほど。

    着陸態勢に入った機は、ベトナム中部、ダナンの綺麗に整備された町並、額縁のようにオレンジ色の整然と縁取る街路灯の上を俯瞰できるように旋回し滑走路に降りる。この空からの夜のダナンの街の風景は、今日一日の汗と焦燥と不安を一瞬、期待に変える美しさだ。ホテルNam Haiの送迎車で、ダナンの街を走り、ホイアンに向かう。ダナンはドイモイ政策の推進後、発展途上のベトナムのシンボルであり、彼方此方に建設中の開発サイトの中を我々は感嘆の声を上げながら通り抜けていった。古い町並みも、新しい町並みも、ともにベトナムの急成長を物語っている。数年後には、ハイフォンをぬいて、ベトナム第一の港、生産拠点になるのは間違いないだろう。ここは、内陸国ラオスのパクセとも近い。インドシナ半島の中央部ヘソである。

    ダナン空港からホテルNam Haiまでは30分ぐらいで午後8時過ぎに到着した。長い一日であった。シェムリアップのホテルを出てから、約9時間のすったもんだの旅。恰幅のいい支配人が玄関で出迎えてくれる。ホテルのバーに腰を下ろしたとき、ダメ押しの疲労が襲う。Nam Haiは文字通り「南の海」に面したビーチリゾートで、2006年オープンの新しいDestinationタイプのコッテージで、広々としたプールやラウンジはPresleyの「Blue Hawaii」で有名なハワイアンビレージを思い出させる。だが、今、ほしいのはとにかくシャワーを浴びることのみ。バーでは黒人女性シンガーがピアノ伴奏でバラードを歌って雰囲気を盛り上げている。長々と、リセプションスタッフによるホテルの諸々のアコモのオリエンテーションにはいささかうんざりした。

    部屋に突入。まず裸になる、シャワールームに飛び込む。やっと一汗流し、蘇生し、持参のジョニ黒を二、三杯あおると空腹を覚える(ちなみに家内の飲んだミニバーのビールは6ドル93セント)。夜9時、遅まきながら、レストランでまずいベトナムフォーを赤ワインで流し込む。家内は魚のフライを注文。あまり美味くなかったらしい。当初、広いテラスレストランは観光客で一杯だったが、私どもが食事をしているうちにみんなネグラヘ引き上げたのか、閑散として、私どもほか数人となってしまった。改めて、周囲を見ると、トーチに照らされた3面の段差のあるプールが鏡のように月を映して幻想的だ。また、かなたの海も、漁火がともり、ロマンチックな気分が疲れを瞬時忘れさせる。このデイーナー料金98ドル。高くないか。段差のあるスイートの室内インテリアは粋を尽くしているが、これも好き嫌いの問題。ひな壇のように床より一段高く紗のカーテンで区切られたベッド。寝ぼけて、黒曜石のタイル床に落下し骨折しなければいいが。疲労が溜まると、夫婦の会話も少なくなる。いまはひたすら寝るだけ。安眠が保障されていればそれでよい。寝よう。いざ、ベッドへ。半端な腹ごしらえと、ほろ酔いでベットに倒れこむ。今宵、睡眠薬の必要なし。

    2008年8月5日(土曜日)

    高齢のせいか、疲れたときに限って、早く目がさめる。家内を起こさないよう、転倒に気をつけながら、ひな壇ベッドより這い出し、リビングのカーテンを開ける。広がる白い砂浜は、視界をさえぎるものもなく、波もないべた凪の海へとつづく。はるかかなたに島が見える。足の裏を包むような粉のような砂。朝6時なのに、もう砂浜は熱くなっている。砂面を覆うようにつたがのび、白い花が咲いている。なんと言う花なんだろう。

    07:30、すでに猛烈な暑さだ。レストラン棟の屋外でBuffet Styleの朝食を摂る。「パリの朝はOmeletsの匂い」を期待し、オムレツを頼むが、まるで卵焼きだ。パンも美味しくない。また、フォーをすする。

    8時半約束のガイド、トゥン君がきた。今日からホイアンーフエの3泊4日のスルーガイドを頼むことにした。今日は一日、定番のミーソン遺跡やホイアン市内の観光に付き合ってもらう。彼は、ダナンで、日本のNGOによる語学教育を2年受けたという、1メートル90の長身、25才のイケメンである。温和なそうな性格で、童顔で笑顔がかわいい。車中、通常の会話では結構軽口をたたくが、観光スポットの説明になると、とたんに丁寧な言葉で、教科書の朗読口調となる。意識的にProfessionalismを発揮しているのかなァ。

    チャンバ王国の聖地、ミーソンの遺跡までは、ホテルより一時間半(約60キロ)かかった。車中から眺める田園風景は、水田が広がり、水牛や赤褐色の牛の群れや畦道のユウカリの並木をのぞけば、日本の田舎と同じ。農家の入り口には、赤唐辛子が山のように干してあったり、ライスペパーが干してあったり、この近辺で生産されているようです。かなり山を上がった所に、遺跡の入り口があり、駐車場から随分歩き、AグループからHグループまで遺跡群が点在するが、グループC,B,D,A,G,と順番に遺跡を見て回る。最初のC群まで行くのに10分ぐらいというが、老骨のわたしの足ではゆうに倍はかかる。遺跡は随分朽ち果ててしまっているが、シヴァ神を祭った赤レンガの祠堂が点在し、900年間の歴史の重みを充分に感じさせてくれるのだが、頭の中で、アンコールのルロイ遺跡と重ね合わせてしまう。最後のG群はトゥン君の勧めもあったが、暑さと疲労のため、割愛させてもらった。A群からは、木陰で谷川を眺め、何度も、休みを摂りながら、トゥン君に腕を抱えてもらって、約一時間半のトレッキングを終えることができた。地元ベトナム人や欧米人に混じって、声高で賑やかな中国、韓国の観光客も多い。帰路は近道を通り、一時間でホイアンの町に着いた。

    ホイアンの旧市街は、車の乗り入れ禁止なので、古く狭い道を川沿いのバグダン通りまで歩き、昼食を予約してあったTam Tam Caféへゆく。間口は狭いが、店は裏通りまで抜けている。若い欧米人で満員状態だ。一階中央部を一部改装しているため、二階のプールバーを抜けて、裏のテラスレストランまで行かねばならない。イタリアンのフルコース(5品)を頼んだが、二人で飲料とあわせ50ドル程度と記憶している。ピツァが美味かった。パンプキンスープもいける。ラグーソースのスパは茹で過ぎ。客の出入りを見ている限り、人気店の一つなのだろう。観光客で満員。

    昼食後、定番の観光コースを二台のシクロに分乗し旧市街のスポットを順次まわる。シクロは真に乗り心地がよい。前に客がすわり、後ろに自転車をこぐ運転手。スピードが出ないのがうれしい。狭い道路の旧市街にはぴったりだし、通り面した店の中も観察できる。交通事故はゼロ。トゥン君は何処で調達したのか、自転車で我々を先導する。3~40分もあればほとんどのスポットを観て廻れる小さな町だ。オールドハウスを3軒廻ったが、日、中、越の混合様式で、随所に彫刻が施されている。また生活上の利便性からいろいろな工夫がなされ面白い。だが16~17世紀(チャンバ王国からグエン朝に政権交代期)にかけて最盛期には1000人もの日本人が居住し、日本人居住区を作り、貿易に従事したという。亡くなった方の墓も残っている。わたし達の祖先ははどんな夢を抱いて、長崎を出て、2700マイル離れた、ホイアンにきたのだろうか。既に明朝の衰退期で、鄭和の活躍した14世紀とは違う。更に、グエン朝にはせいぜい中継貿易地点としての役割しかなかったはずだ。日本にとってそれほど夢を膨らませる魅力的な港とも思えない。更に産物も少ない。この時代、隣のアユタヤにも日本人町があり、山田長政がいて、日本人傭兵隊を組織した。これは本国の幕府の鎖国政策への転換が彼らをマーセナリーにはしらせた。想像してみるのだが、グエン朝には興隆期にあるものの、日本を魅了する生産力がホイアン近隣地方にあったとは思えない。どんなロマンがあったのだろうか。それとも棄民か。逃亡者か。

    シルクの店Thang Loiで家内がパジャマを注文する。40ドル。仕立てた上、明朝、ホテルのNam Haiまで届けてくれるそうだ。女性のショッピングは時間がかかる。冷房の効いた部屋で待つことにするのだが、そこでオランダからの中年の旅行者カップルと談笑する。やはり奥さんが買い物に夢中になっているという。待つこと、すなわち耐えること。聞けばこのオランダ人夫婦は、もっぱら鉄道を利用し、ここからフエ、ハノイ、サパ等3週間かけて旅行すると言う。Flying Dutchmanだといったら、うなずいて笑った。

    車でホテルまで帰途25分ぐらいかかった。わたし達のタオルは汗を含んで湿っているのだが、トゥン君はぜんぜん汗をかかない。トゥン君は、夜のホイアンの街もランタンが灯り一見の価値ありと誘うのだが、こちらは早く風呂に入りたい一心。トゥン君を解放する。夜食にはクラブハウスサンド一人前を部屋で夫婦折半。水割り用の氷を頼んだら、大きなクーラーボックスで持ってきたのには驚いた。ホテルからホイアンの町まで無料のシャトルサービスがあるのだが、風呂から出るともう町まで出かける気力はない。すでに腰椎がきしんで悲鳴をあげている。暑さとの耐久レースのような一日。明日はフエまで四時間の旅だ。トゥン君に明朝フエへの出発を8時30分から11:00に遅らせてもらった。体力回復のためゆっくり休みたい。この豪華な長期滞在型リゾートホテルを楽しむ時間がまったくない。プールもビーチも眺めるだけだ。ホテル選択の間違いに気付く。

    2008年7月6日(日曜日)

    疲れていても熟睡はできないものだ。依然日本時間で目が覚める。東雲のプライベートビーチを家内と散歩する。波がなく湖面のようだ。昨日ホイアンの旧市街で買った畳表のサンダルで歩くと、鳴き砂のようにキュツ、キュツという。そういえば、ダナンから珪砂を日本に輸出していると聞いたことがある。ホテル内の大きなプールを一周する。食欲なし。テラスの寝椅子でジョニ黒を一杯。スタッフがお土産としてホイアン名物のランタンのミニャチャー2個を進呈してくれた。

    11:00、トゥン君に気合を入れられ、ダナンを経由してフエに向け出発する。ハン川、大聖堂、ダナン港、ミーケビーチを通り、5行山を車窓から見ながら、ハイバン峠を目指す。ベトナム戦争時、ダナンへの米国海兵隊の上陸、ダナンの港湾を沖まで埋め尽くした数百の米国の艦船、米軍によるダナン空港の建設等、ベトナム戦争の往時を思い出さずにはいられない。25才のトゥン君の生まれる前の話だ。これから向かうフエ(当時はユエといった)も最大の激戦地だった。フランス統治時代から1975年まで16年もつづいたインドシナ半島の南北統一戦争は米ソ中を始め冷戦下の全世界を巻き込んだ戦争だった。たくさんの若者の血を吸ったダナンは、いま整然と開発が進みベトナム経済発展の橋頭堡となっている。

    ハイバン峠は500メートル弱の峠だが、この峠の南と北では人間の気質まで違うといわれる。曲がりくねった道を登ること約40分ぐらいで頂上に達する。頂上からは青い海が一望できる。往時、フランス軍も、日本軍も、アメリカ軍もここに要塞を構えた戦略的重要地点なのだ。南北の分水嶺といってよい。トンネルも2005年に完成し、鉄道が敷設されている。頂上付近にはいまだ数多くの朽ちたトーチカがあり、昔日の激しい攻防を思い出させる。トーチカの銃眼には洗濯物が干してあったり、大きな看板が並び、土産物屋さんの呼び声も賑々しい。かってここで苦しい思いをした人たちは今、どこで、どんな夢を見ているのだろうか。

    頂上から北へ降ったところにThanh Tam Restaurantがある。休憩する。突き出たテラスから眼下にランコー村が俯瞰できる。内海と外海にはさまれた細長い地形なのだが、淡いピンク色の砂浜と椰子の並木が植えられ、一部は干潟のようになってりる。ハワイのラグーンのようだ。アクセスさえよければ、立派なリゾート開発ができる。屋外レストランで水槽の車えび、やや小ぶりながら、500g(当初1キロと注文したら4人で500gでも充分といわれた)を注文。5分と待たず配膳される塩茹でがうれしい。成る程、約80匹以上皿にあった。ハイネッケンビール2本、コーラ2本で総計15ドルは安い。贅沢な話だが、えびの皮をむくのがやや面倒だが、塩加減よし、味噌もたっぷりで絶対にお勧め。朝から食傷気味だったが、これで解消。トンレサップ湖のえびとは味が違う。ハイ(海)ヴァン(雲)の眺望は、すっかり晴れ上がり、気分上々、こちらの気分まで綿のような白い雲となってランコー村の上に舞い上がる。ランコー村まで峠を下りて、一号線でフエへ出ることも可能だが、この先に森林国立公園の傍を抜けるというので、トゥン君の指示に従った。

    14:30分、ベトナム戦争で壮絶な激戦があった古都、フエの市街に入る。車が通るにやっとの路地裏のレストラン「Club Garden」にはいる。ベトナム料理としては可なりの店らしいが、時間外で、我々以外に客はいない。トゥン君のメニューの説明を聞いてもなかなかピクチャーが浮かんでこない。しょうがない。かにのスープ、揚げ春巻き、フォー、焼きそばとあてずっぽうに注文する。美味そうに頬張るトゥン君の焼きそばをもらうことにした。細面のビーフン状(?)のものを揚げて具をかけただけのものだが、これが一番口にあった。ビール2本とコーラ1本で総計29ドル。ここは、「Tropical Garden」の姉妹店でもあり、市内で宮廷料理店も経営していると聞く。アオザイの従業員が綺麗だ。アオザイも、観光向けとなってしまって、町では見かけない。

    ドンパ市場へ行く。家内は熱心に、マルボロやジョニウォーカーの値段を最初に訊いて回る。これは簡単に、各市場の値段状況を把握するのに役立つという。わたしは迷路のような市場の熱気から早々に逃げ出す。市場の外に出ておとなしく待つことにした。家内はベトナムコーヒー2袋を6ドルに買う。随分粘って買ったようだ。ご苦労様。

    グエン王宮に着いたのは16:00過ぎ。フエ市内を二つに分けるフォーン川をわたり、旧市街のバイクの流れをかいくぐり、排気ガスと喧騒のフラグタワーの前に駐車して、午門を通り、王宮に入るのだが、暑さのため、わたしはもうダウン寸前。家内とトゥン君だけを王宮内に入らせ、わたしは大和殿の前で腰をおろして待つことにした。殿内は撮影禁止だという。石畳に石造の大きな蛙が大きな口をあけている。暑さで頭が朦朧としてきた。呼吸も困難だ。わたしも蛙に並んで大きく口をあけてみた。ヘルプ、ミー!王宮門(午門の城壁にはベトナム戦争時の弾痕のあとがある)を出たところで車待ちの杖をついた品のいい英国老紳士と会話する。「暑いね!、何とかならないのこの暑さ!」 No Way, No way out for this hot weather! There’re no way for any human beings to deal with this burning heat! But for local Vietnamese! ベトナム人だって暑いんじゃないか?

    夕6時、ホテルImperial15階のRiver Viewの部屋に入ったときには、ベッドに崩れるようにダウンした。暑さが人間の精気を徹底的に絞り奪ってしまう。冷房のよく効いた部屋からは、夕暮れ時、フォーン川にかかるノースアン橋や、フラッグタワー、王宮の甍、はるかに霞む山々が一望できる。暗くなるにしたがって、街路灯がともされ、川を行き交う船の灯火が揺れて、古都の風情を少しづつかもし出してゆく。一風呂浴びて、ジョニ黒をすすりながら、窓外を眺めていると落ちつくものだ。フォーン川とは「いい香りのする川」という意味ださうだ。トゥン君は夕食にフエ宮廷料理を勧めるが、暑い外に出る気力はない。川沿いの公園辺りにもカップル向けのレストラン数店あり、歩いて10分の距離で且つ安全という。トゥン君を自宅に帰すことにした。相談の上、階下の日本料理店「よし原」に行く。串揚げ10本と、冷奴、ビールを注文。19ドル50㌣。まずい。油でべたべたの串揚げで、半分食べて、出ることにした。眠くなるまでフォーン川をみる。

    2008年7月7日(月)

    ホテルでBuffet Styleの朝食を摂る。いろんな種類があるが、あまり美味しいとおもうものはない。卵料理をやっていたので、女性の料理人に、Omeletsの作り方をフライパンをとって教える。まあ、まあで、Nam Haiよりは美味く出来上がった。

    08:30、トゥン君が迎えに来る。フォーン川のクルーズでティエンムー寺まで行くという。インペリアル ホテルからフエ師範大学の前を通り、船着場に5分で到着。15人は収容できそうな、舳先に竜を極彩色に飾った屋形船に乗り込む。船頭と奥さんの夫婦舟だ。川幅50メートルはあろうか、フォーン川を右側通行でゆっくり遡行する。町の喧騒が遮断されたようで、樹木の多い川べりの風景を楽しめ、この船旅は癒しとなる。我々の乗る船は川の中央に碇を下ろしている警察官の小船に近づいてゆく。船頭の奥さんが、警官に非公認の通行料を払うのだ。窓をカーテンで覆ったその小船から、警官は姿を見せずにゅーと腕だけを出て、いだだくものを鷲づかみする。観たくない光景を見てしまった。奥さんが床に絵はがきとか織物のお土産を並べて販売ししだす。成る程。ティエンムー寺までおよそ50分強の船旅。逞しい。

    ティエンムー寺のティエンムーとは(天婆)という意味だそうだ。トウニャン(慈悲)という21メートル、7層の塔は各階に仏像を納め、いり口に「読國史記老嫗現身之悟岳河永園霊鐘億万撰基図」の石柱あり。この奥に釈迦を祀ったタイフン寺がある。門額に「神通知勝」とある。大きな本堂だ。この寺の裏に通づる側道脇に、南ベトナム初代大統領ゴ・ジン・ジエムの仏教弾圧に反対し、サイゴンのアメリカ大使館前で焼身自殺を図ったこの寺の高僧ティック・クアン・ドック師が、サイゴンまで乗っていった乗用車が展示されている。結跏趺坐する釈尊のように蓮華座ですわり、ガソリンをかけて焼身するのだが、最後まで姿勢は崩れなかったという。1966年のことだ。

    この後の観光コースとして、車でグエン朝の帝廟幾つか廻ることになる。最初のミンマン帝廟は、駐車場から一キロ以上の距離を歩かなければならない。弾痕の残る廟の塀に沿って歩くうち、家内はもう歩くのはイヤだと言い出した。何とか廟にたどり着くも、出口脇の売店で休んでいるという。暑気負けだ。もう一軒のカイディン帝廟まですぐちかくだからと励ます。その後の予定の帝廟まわりはここで中止しようということになった。トゥン君は残念がるが、やむをえない。

    昼食はミンマン帝廟にちかいLa Thongでとる。日本人経営のベトナム料理店である。欧米観光客が多い。われわれのテーブルに日の丸の小旗を立ててくれた。それぞれがいろんな料理を注文したが、トゥン君の焼きそば風の皿が美味そうで、取り上げてしまった。Mi Xao Hai Sanという。要するに、海鮮風焼きそば。

    この日はミンマン帝廟への徒歩往復で疲れ果ててしまった。もう観光を続ける気力はない。16:30分、ホテルへ帰る。トゥン君と運転手に3日間の感謝をこめて、別れの挨拶をする。彼は25歳で、ベトナムでは結婚適齢期のリミットなのだそうだ。来春、彼女(22歳)の大学卒業を待って結婚するという。結婚後はトゥン君の両親兄弟と一緒に生活することになる。無論男女それぞれの父親の承認が絶対要件。もし、続いて、トゥン君の弟が結婚すれば、この夫婦も一緒に住むことになる。大家族主義だ。これが、ベトナムの普通の家族の態様だという。お幸せに。

    日没前に、Imperialホテルの16階の「パノラマ バー」へ家内といってみた。屋上テラスからの眺めは、まさにパノラマ、360度の絶景です。フエの町が一望できます。ラウンジに入れば、バーテンダーの腕前も一流。楽しいひとときが過ごせました。


    【旅行時期】2008/07/04~2008/07/10
    【エリア】ベトナム
    【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
    【投稿者】pumpkin915

    ブラジル旅行は気をつけて。(by roku-chanさん)

    逃亡者
    写真を撮るどころではなかったです。

    白人であろうが黒人であろうが、はたまた日系人であろうが、犯罪を犯す人はいるんです。
    だから財布はなるべく人前で出さないようにするし、カメラはのんびり肩からさげて歩くわけにもいかなくて、撮った写真はこの一枚だけ。(この写真はパラナ松です。一風変わった形をしていてパラナ州だけに分布しています。)

    ちなみに移動中はずっと防弾車だったんですよ。

    都会には犯罪があふれているし、田舎やらジャングルやらにいけば逃亡者が潜んでいるらしいし。もちろん警官だって必ず善人とは限らない。イグアスの滝などは三国との国境沿いだから麻薬の売買も盛んなんだそうで。何年か前にフランス人観光客が亡くなっているそうです。旅行するには気をつけないといけないですね。この国は。


    【旅行時期】2007/01/~2007/01/
    【エリア】ブラジル
    【テーマ】
    【投稿者】roku-chan

    隠岐へ(by buchijoyceさん)

    逃亡者
    はじめに
    隠岐へ行ってきた。素敵なところだった。あいにく天気が悪かったので、海の色が分からなかったが、海の色を見にまた行きたい。
                            
    隠岐へ行こうと誘ったのは妹である。それまでは、私の意識に隠岐という文字はなかった。対馬には行きたいとは思っていたが、隠岐にはまったく魅力を感じていなかった。だいたい太平洋側の人間にとって、山陰というのはイメージが暗い。夏の佐渡にも行ったし、真夏の山陰を山口から鳥取、京都と旅したことはあるのだが、それでもなんとなく暗いイメージがしみこんでいる。はじめて見た日本海。剱岳に登るため、夜行寝台で上野を発って、直江津を通ったとき初めて日本海を見た。その日本海は、どんよりと濁った緑色をしていた。日本海って、なんて暗いんだろう、というのが第一印象だった。それが印象として残ってしまったようだ。さらに隠岐は流刑の地であったことも、流された都人たちの悲しい和歌からも、なんとなくイメージを暗くしていたのだろう。
                                 
    妹に誘われて、隠岐のことを調べた。岩ガキがある。食いしん坊の私にとって、岩ガキは魅力だ。で、二つ返事で行くことにした。そこからである。「島の旅」というガイドブックを買った。読み物として「街道の日本史37 鳥取・米子・隠岐」を買って読んだ。実におもしろかった。というのも山陰の歴史には詳しくない。だから書いてあるもの、全てが新鮮で、興味深いのである。隠岐はずいぶん豊かで歴史のある島だったのだ。         
    この中に出てくるラフカディオ・ハーンの「伯耆から隠岐へ」は松江の小泉八雲記念館で買って、帰りの電車の中で読んだ。彼の描写力にはうならせられるものがあった。写真で映像を切り取ってしまうから、いつしか文章で描くことを忘れてしまっている自分を反省した。                                                   
    隠岐は大小180もの島々から成っている隠岐諸島である。人の住む島は4つ、大きい島が島後(どうご)、島内の町村が合併して隠岐の島町になった。人口は17,063人(H18)。あとの3つの島を島前(どうぜん)と呼ぶ。中ノ島は海士町、人口2,494人、西ノ島は西ノ島町、人口3,524人、知夫里島は知夫村、人口738人、1島1自治体になっている。                                  
    離島の旅というのは、特に最初は、行き当たりばったり、というわけにはいかないようだ。私は行き当たりばったりの旅が好きなんだが。ガイドブックを見ると、さらに追い討ちをかけるように、予約して行った方がいいと載っている。飛行機も、高速船も、ホテルも、観光タクシーも早めに予約した。予約したことでよかったのは観光タクシーの平野さんとのメールのやり取りであった。平野さんの客をもてなそうという誠実な気持ちがメールに現れていた。観光を考えるなら、ウチの町も客をもてなそうという気持ちが大事とつくづく感じた次第。私の興味も伝えておいたので、前もって調べておいてくれた。おかげで隠岐空港で初めてあったのだが、旧友にあったような気楽さで、すぐ打ち解けて、たのしかった。
     
    予定を5月中旬にしたのは、隠岐の年間平均降雨量や日照率を比較し、シーズンをはずしてこの時期を選んだのだったが、今年は異常気象、天気予報は旅の間はずっと、ぐずついた空模様だと期待薄の予報をしていた。予約をしていなければ、日程の変更も出来たのだが、そういう意味では決まった日程は辛い。次は平野さんにお願いして、お天気を見定めてひょいと行きたいと思っている。

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    参考:街道の日本史


    「街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐」
    但馬・因幡・伯耆
















    錦織 勤 池内 敏



    吉川弘文館






























    隠岐に行こうと思っている。そこで資料を集めている。パンフは隠岐の観光協会から送ってもらった。「島の旅」というガイドブックも買った。もう少し、読み物的なものがほしいと、ブックサービスを探すと「鳥取・米子と隠岐」というのがあったのでそれを取り寄せた。読み始めると郷土史のように詳しい。大体、山陰についてはよく知らないから、地図を見ながらの読書となった。しかし、知らないがゆえにへぇ~と思うことばかりで、すっかりのめりこんでしまった。鳥取の県史と言ったらいいだろうか。
    隠岐は島根県である。それをどうしてここに入れたのか、たぶん鳥取県の境港から船が出ているからだろうと、よそ者は勝手に思っている。隠岐というのは火山で出来た島で、4つの人の住む島と180の小さな島からなる。一番大きな島、島後(どうご)とあとの3島をいっしょにして島前(どうぜん)と呼ぶ。島の歴史も古くからある。
                        
    「街道・・・」は、豊岡から鳥取までを歩き始める。行政区として今は兵庫・鳥取ということになる。「街道・・」は隠岐も加わるから、兵庫・鳥取・島根の3県にまたがることになる。豊岡往来、因幡道と続く。ほぼ国道9号線にそっているようだ。先ずは、その街道沿いにある町や村の成り立ち、支配層の履歴、神社仏閣、名所旧跡など、さまざまな詳しい説明がある。
            
    地理的に興味を持ったのは、山陰と山陽との関わりだ。関東の人間には中国山脈が屋根のように中央を走っているから、山陰と山陽との往来は少なかったろうと思っていたら、古来から山陰に入るには峠を越えて山陽から入っていたのだった。たまたま隠岐からの帰りに米子から倉敷に抜けようかと時刻表を調べたら、すこぶる電車の便がいいことに気がついた。意外だった。本を読んでなるほどと納得した。昔からの往来の所以なのだろう。
    山陰からの人や物は、この山脈を越えて山陽に出て、畿内へ向かっていく。山陽側は河川交通が発達していた。河川はならだかで水量豊かであった。非常に古い時代から河川水運が上流まで通じていたから、山越えをしてもこちらの方が便利だったようである。高瀬舟である。

    とかくよそ者は山陰という言葉でひとくくりにしてしまいがちだが、関東と言っても地方には個別の文化があり、ひとくくりは出来ないように、山陰もまた地域それぞれに独特の歴史、文化を展開してきたのだ。 国道9号線は車で走ったことはあるのだが、いかんせん時が経ったので、断片的にしか覚えていない。この本を読んだので、再度本を頼りにゆっくり訪ねてみたいと思っている。
                                 それとはじめて気がついたのだが、山を「せん」と読むようである。大山(だいせん)蒜山(ひるぜん)という地名は知っている。行ったこともある。しかし地図を眺めていると、やたらと「せん」というルビに気がつく。氷ノ山(ひょうのせん)、扇の山(おうぎのせん)など。
                                
    鳥取を過ぎ、砂丘を越えて、米子に向かう道は伯耆道。白兎海岸の近くに湖山池というのがある。子どもの頃、この池の伝説を読んだことがある。長者の広いたんぼに田植えをしていたが、日没前に終わりそうもなかった。そこで長者は太陽に向かって、扇をふって太陽を沈まないようにさせ、田植えを終わらせることができた。翌朝目を覚ますと、長者の田んぼは池になっていた、というような話であった。                                                
    この街道には興味をそそる遺跡がずいぶんある。初めて知ったのだが、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)などは訪ねて見たい遺跡の一つである。弥生時代のムラの遺跡である。 まだ解明途中のようだが、興味をそそることこの上なしの遺跡である。
                                
    明治になって島根県に併合された鳥取を視察に来た山県有朋は鳥取藩士たちの窮乏に心を痛め、その結果、藩士たちの福島県や北海道への開拓移住が行われた。もちろん海外への移住も行われた。以前、徳島藩の洲本の藩士たちが北海道へ移住した苦労の歴史を読んだことがある。鳥取といえば有名な青ナシ「二十世紀ナシ」は松戸のナシを改良したものだったのだ。 
                                
    隠岐をちょっとまとめておこう。
    隠岐は縄文時代から本州と往来があった。それは隠岐産の黒曜石が山陰各地の遺跡から発掘されていることからわかる。律令時代には隠岐国が置かれ、中世、鎌倉期には守護として佐々木氏が、南北朝期には40年ほど、山名氏の領地であったが、その後また佐々木氏の支配になった。鎌倉期には守護として関東人が任じられ東西の交流になっていたようだ。関が原の戦い後、松江藩、その後から幕末までは天領(幕府の直轄地)であったが、実質的には預かり地として松江藩が支配していた。江戸時代の隠岐は、北前船の寄港地として栄えた。                                             
                                
    隠岐騒動が起きたのは1868年、以前から松江藩に対して嘆願書を出していたが認められず、あげく郡代が庄屋あての文書を勝手に開封してしまったことに端を発し、島後の島民が松江藩に対して抗議し、郡代を追放、自治政府をつくった。ただしこの自治政府は81日間で、松江藩兵300人の攻勢にあって敗れ去った。自治政府側の死者は10人、逃亡者100人を越えた。これにより隠岐は鳥取藩に管轄がえとなった。一方、島前は一貫して松江藩に同調する動きをみせた。それは島前の代官に不満はなく、島前の島民は騒動を起こす必要性はなかったからだという。
                                 
    隠岐は1871年、鳥取に移管されたが、1876年、鳥取県を併合した島根県に入る。1881年、鳥取県は再び県として置かれたが、隠岐は島根県にとどめられた。といってもことはすんなりいった訳ではない。                                               
    美保関には中世を通して関所が置かれていた。山陰の重要な港は美保関、小浜浦、長浜浦であった。隠岐船は美保関港に入るたびに関役を払っていた。どうも隠岐の船だけに納入義務があったようである。ということは美保関にとって隠岐船は重要であったといえる。たしかに膨大な関役が上納されている。隠岐の物産の豊かさが伺える。江戸時代には唐貿易の輸出品として俵物(干なまこ、干あわび、ふかひれ)の主産地になった。増産が求められ、よそからの海士の導入が図られたが、かえって乱獲による資源減少で、1806年には中止になった。「牧畑」という独特の農牧の仕方は注目されてきた。
                                 
    山陰線が鳥取まで開通したのは1908年、開通式で原敬鉄道院総裁の挨拶で、「裏日本交通実現の端緒」と発言。ここから「裏日本」という対比語が使われるようになった。                
    1892年8月、ラフカディオ・ハーンが隠岐に渡っている。「伯耆から隠岐へ」という著書があり、その内容の抜粋が紹介されているがおもしろい。 境港と隠岐が汽船で結ばれたのは1885年2月のこと。隠岐4郡町村連絡会が汽船の購入を提案し、反対が強く実現は危ぶまれたが、焼火(たくひ)神社の神主の尽力で実現された。
                   
    この船でハーンは隠岐に渡ったのである。船に乗るときハーンは洋服から和服に着替えた。ハーンには「西郷(島後の港町)は驚きであった。」家屋は明るく、「青い屋根瓦」は色鮮やかであった。 「フライド・ポテトつきのビフテキかローストチキン」を注文してもよいと言われたが断った。そんなことをしなくても「食事はびっくりするほどいいし、珍しいくらい変化に富んで」いた。 ハーンはすこぶる隠岐が気に入った。ただひとつ、はじめて島を訪れた外国人みたさに島人がひっきりなしに訪れる以外は。 「後ろ髪ひかれるような思いで」島を後にしている。 島では「どこまでも伸びていく文明の圧力からのがれているという喜び」や「人間生活の万事が人工づくめな領域をこえて、本当の自己を知る喜び」が感じられ、「わたくしは隠岐が好きになった」と記している。  
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    ◇旅の始まり  
                          
    5月17日(水)

    真鶴は高曇りで光も漏れていた。西に向かうにしたがって、空模様が怪しくなり、どこからか雨が降り始めた。予報どおりだ、仕方がない、とあきらめる。指定席は買えなかったので自由席で行った。名古屋までは「こだま」だったので空席があったが、名古屋で「ひかり」に乗り換えると空席はなく新大阪まで立っていた。新大阪構内でバス乗り場を教えてもらい、降りていくとちょうど空港行きのバスが発車寸前。あわてて乗り込む。雨が激しく窓ガラスを打つ。やがて大阪(伊丹)空港。先ずはチェックインを済ませ、昼食を食べに行く。時間はたっぷりある。
     
    今回は国内旅行だから、もちろん手荷物、バッグひとつだが、これにはノートパソコン(1kg)が入っている。これはPapasanが持つ。私はいつものように大きなカメラバック。フィルムは鉛の袋に入れず、カメラバッグにそのまま入れた。だからこれがチェックで引っかかることはなかったが、かわりにパソコンが引っかかった。「このパソコン、いつもお供して行くけど、ひっかかったのは初めてよ~」一応中を開けさせたけど、何を調べたんだろう。
           
    待合室にいると、妹のA子さんが来た。今回の旅の全員、といっても3人がそろう。妹との旅行は八重山に次いで二回目。飛行機に乗り込む。プロペラ機だ。空いている。Papasanはさっそく空いている席に移動。そこで各自窓側に座ることになる。隠岐までは一時間のフライト。雲で外は真っ白。で、うとうとしてしまった。ふと目を覚ますとすぐ下に島が見える。緑に覆われた、でも海岸崖が目立つ。いくつも島がある。その間の海には赤潮がすじを引いている。漂流物も見える。飛行場は島後の西郷にある。
      
    飛行機は西郷空港に到着。雨は止んでいる。出口で「平野さ~ん」と呼ぶと「は~い」といって平野さんが現れた。自分のことをいかりや長さん風と言っていたが、いえいえ、長さんよりよっぽどハンサムだし、親しみやすい。荷物をトランクにいれ、私はカメラバッグを抱えたまま車に乗り込む。Papasanは助手席、私とA子さんは後ろに。カメラバッグは真ん中に座った。「こんなお天気だからお任せ」というと「史跡は逃げませんがお天気は変わりますから、景色を優先させましょう。遠くから行きましょう」と車が走り出した。赤い大きな橋を渡り、広い道路を走っていく。行きかう車はほとんどない。「離島振興で無駄な道路を作ってますね」と冷やかすと、「そうです。後で通りますが立派なトンネルもありますよ」と平野さんも苦笑した。
                            
    白鳥展望台、白い岩肌の岩石が亀のようにはいつくばっている。背中に松を背負って。白い砂が海の青さをエメラルドグリーンに引き立てている。きれい。
        
    ローソク島も上から見た。島後での私の関心事はこのローソク島に夕日がかかるのを見ることだった。ちょうど、岩の天辺の細い部分に夕日がかかって、あたかもローソクに火をともしたようになるのだという。しかしあいにくと今日は曇り。これは海上からでないと見られないのだが、今日は夕日は見られそうもないので割愛。しかし、シャクだ、もう一度来なくっちゃ。
      
    ウグイスがさかんに鳴いている。中世から隠岐国一宮だった水若酢神社(みずわかすじんじゃ)。本殿は18世紀末の建築で国の文化財に指定されている。いつものように「ね、ここの神さまはどなたでしたっけ」といいながら、お天気をお祈りする。      
    隣は隠岐郷土館。明治の建築でずっと役所に使われていたハイカラな洋館を移築したもの。つるつるの床なのに靴をはいたままでOK。申し訳ないようなきれいさだ。チケットを買っていて遅れてきたPapasanは靴を脱いでスリッパに履き替えて来た。「スリッパに履き替えるのは下駄の人だけって書いてあるよ」「あんまりきれいなので土足では申し訳ないと思って」ほんとにそうだ。
       
    民俗資料はさほど変わったものは見つけられなかったけど、隠岐の動植物の写真はたのしかった。貝殻もきれいに飾られている。隠岐固有の動植物の書物があったらほしかったけど。目に留まったのは資料館の前に置かれたこの石。なんだろう?
                                  
    駐車場から石段を登ること100m余り、坂の途中に板で作った縁台のような展望台がある。そこから振り返るとトカゲ岩が見える。トカゲというかイグアナというか、オオトカゲが崖をよじ登っているように見える。26mもあるトカゲの尻尾の部分が岩にくっついている奇岩ではある。自然の造詣にただただ感心している。平野さんは日本三奇岩のひとつで、と岩石の説明もしてくれたが忘れてしまった。
        
    びっくりしたのは乳房杉(ちちすぎ)、樹齢800年だというが、下垂乳房根(鐘乳根)がまるで年を経たイチョウの古木ように垂れ下がっている。こんな杉はじめてみた。なんとも迫力がある。まして天候が悪いから杉は、なお幽玄に見える。
                                 「隠岐は最近2つのことで話題になりました」と平野さん。
    「竹島問題ね。私も境港を気にして見ていたわよ」
    「竹島には昔は五箇村の漁師さんが行っていました。しかし戦後は近づくこともなかっので、こういうことになってしまったようです。もうひとつは産科医がいなくなってしまったことです。そのため妊婦は松江の産科へ前もって行かなければならなくなって」「うん、ニュースをみましたよ。なら助産婦さんを確保すればいいんですよ」「いや産婆はいるんです」「ならそれで十分じゃないの。お産は病気ではないし、異常分娩は数が少ないんですよ。異常な人は前もって分かるからそれこそ前もって、病院へ行っていればいいんだし、私達だってみんなお産婆さんに取り上げてもらったんですよ。妊産婦が意識改革しないとね。」
    平野さんは私よりは若く、ちょうど弟ぐらい。だから子どものときの食べものや遊びに共通点がある。話が合う。                              
    展望台へ行く途中、標識が立っていた。ここから竹島まで166kmとある。竹島は島根県の行政区に入っている。
                             
    石楠花(しゃくなげ)園にも寄った。ここのオーナーの元村長さんだったかが、自分で1万本もの隠岐石楠花を育てて、この石楠花園をつくったのだそうだ。斜面いっぱいに石楠花が咲きそろってあでやか。隠岐石楠花は日本でも最も低地に自生している石楠花で、葉が小さくて丸みを帯びていて、花の色はピンクか白でか花弁の先が7つにわかれているのが特徴だそう。蜜を吸いにクマバチがたくさん花にもぐりこんでいる。





    佐々木家へ寄った。もう開館時間を過ぎてしまっていたので、中は見ることは出来なかったが、隠岐独特だという屋根と、隠岐作りという玄関が3つあるのは見て取れた。玄関のひとつは役人など位の高いお客さんが入る玄関、二つ目が一般の人の入口、3つ目がそれ以外、と身分で決められていたそうだ。
                                
    帰りに酒屋さんに寄ってもらい、私は隠岐誉の純米大吟醸と純米吟醸を買った。晩酌のためにである。隠岐ビューポートホテルについた。明朝は8時半にと約束して、チェックイン。私たちの部屋は4階、レベルアップしたとかで、部屋は広い。ツウィン・ベッド、たっぷりした応接セット、会議が出来そう、さらに畳を敷いた和のコーナーもある。ここだって会議が出来そうだ。カーテンを引くと、目の前は波止場、胴体に大きな鬼太郎の絵がついた大きなフェリーが止まっている。そうか、そうか、境港は鬼太郎(きたろう)の町だった。
    買ってきた酒を冷蔵庫に入れ、パソコンをつないで、デジカメの写真を取り込み、メモリーをゼロにして、とそんなことをしていると夕食の時間になってしまった。Papasanはビールを飲んだからいいけれど、私はちょっとお茶でのどしめし。2時からずっと移動していて、お茶を飲むこともなかったから。
                                 
    レストランから海が見える。灯りのない岬の先端に、灯台の火が赤くともっている。
    「あれがローソク島ね、明日、平野さんに会ったら、ローソク島、見たって言わなきゃ」と笑っている。
    すると、サービスの女性が、「いつもはあの灯台のあたりにいさり火が並ぶんですよ」と教えてくれた。お酒を聞くと隠岐誉の上撰しかないという。「そこで買ってきたんだけど味見をしたいから飲んでもいい」と隠岐誉の瓶を見せると、「どうぞ、どうぞ、美味しかったらたくさん買っていってください」と冷酒用のグラスをもってきてくれた。まだ冷えてはいなかったが、隠岐誉の純米大吟醸、すっきりしていて美味しい。これはいい。1本あけた。また買おう。お料理は、ヒオウギ以外忘れてしまった。お土産になさいますかと言って、ヒオウギを洗ってラップしてくれた。3個のヒオウギは赤、黄、紫と色ちがい。とってもきれい。「貝は水がかかっているときれいな色を保っているんですよ、だから鉢の周りに並べるといいですよ。稚貝はみんな同じように茶色っぽい色をしているんですが、大きくなるにしたがって、さまざまな色になってくるんです」「へぇ~、驚いた。ということは、貝の意志で色を決めるのね。」ヒオウギは帆立貝の仲間のイタヤ貝科である。だから味も美味しい。
                                 朝早かったこともあって、マッサージを頼んで、早々に寝てしまった。夜中に目は覚ましたが、とうとう朝まで起きることはなかった。

    【旅行時期】2006/05/17~2006/05/18
    【エリア】隠岐
    【テーマ】
    【投稿者】buchijoyce

    逃亡者の画像